茅野市 神長官守矢史料館

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諏訪大社上社に行こうと思いつつ、途中、まだ見たことが無かった神長官守矢史料館の前を通ったので、寄り道することにしました。
諏訪大社上社の本宮から徒歩10分ほどの距離です。

個人のお宅という感じの入り口

神長官守矢家とは、古代から明治の初めまで諏訪大社上社の神長官という役職を勤めてきた一族のことです。

古代とは、諏訪氏が諏訪に来るより前、つまり古事記の国譲りに登場する諏訪大明神(建御名方神、大国主命の子)が諏訪地方に来る前から住んでいる、ということになりますので、大昔過ぎて気が遠くなります。

諏訪氏がこの地を支配するようになった後も、諏訪の地の実際の祭司を祀り神事を行っていたのは、土着の氏族である五官の祝(神長官守矢氏・祢宜大夫守屋氏・権祝矢島氏・義祝伊藤氏・副祝長坂氏)だったそうです。

現在の守矢家御当主は78代目だそうです。一代20年としても、ざっくり1600年、うおお。

中にも門が

古い古い、通常なら負け組として滅んでいてもおかしくない一族が令和の現在まで続いているということにまず驚きました。たくさんの古文書が残されており、その一部をこちらの史料館で見ることが出来るというのはかなり貴重なことではないかと個人的には思います。

こちらは祈祷殿。

祈祷殿

神長官が神に祈る場所だそうです。記録が残っている中では、武田信玄の戦勝を祈願したなど。

武田晴信(信玄公)は諏訪大社を厚く崇敬しており、守矢家の子供に武田家の通字「信」を与えたという記録が残っているそうです。

明治に一度壊されたものの十数年後に再び再建されたそうで、おそらく地域の人達にとって、それだけ重要だったということなのかなーと思われます。

史料館はこちらです。

神長官守矢史料館

こちらは茅野市出身の藤森照信氏による設計で1991年に完成しました。よく見ると、入り口の四本柱にも薙鎌という諏訪大社の祭器が打ちつけられていました。藤森照信氏の建物については、別途後述する予定です。

史料館を建てる前(1990)に神長官邸付近の発掘調査を行ったところ、遺跡は13世紀後半から存在していたとのこと。また織田軍が武田勝頼を滅した際の放火により消失した痕も残っていたとか。

館内に入ると、まず神事である御頭祭(おんとうさい)の復元展示が目に入ります。近くで見るとかなり強烈なので、敢えて遠景で。

鹿猪鹿鹿猪鹿的な配置

かつては鹿の首75頭を供えたとのこと。ここには25頭しかいなかったので、実際にはこの3倍、凄い数です。かつての神事の際も鹿の数が揃わない場合には、足りない分を猪で代用していたとのことでした。

手前に丸のままのうさぎ(もちろん剥製)も供えられていましたが、串刺し姿だったので自主規制しました😅

現在の神事では、もちろん?剥製を使用して行っているそうです。

御贄柱

奥は企画展示室で所蔵されている古文書が展示されていました。企画によって中の資料は総入れ替えされるとのこと。こちらの部屋は撮影禁止でした。

武田晴信(武田信玄)や真田昌幸の書状や、鹿食免・鹿食箸の実物や版木もありました。

鹿食免・鹿食箸とは鹿食許可証のお札のことです。日本では諏訪大社のみ発行出来たそうで、いわゆる免罪符ですね。西洋も東洋も考えることは似ていますね。獣食は表向き禁止と言いつつも薬であるとも考えられており、江戸時代には幕府や諸大名への贈答品として人気だったそうで、展示されていた版木は京都の版木師が彫刻したものとか。

一般的に他の地域では神の使いとされている鹿を神事に供し、積極的に食べていたという辺り、なんとなくですが、古代からの深い因縁を感じました。

獣食については、桜(馬)やぼたん(猪)、柏(鷄)のように鹿にも紅葉という隠語がありますが、それを使わずに敢えてそのままの名前(鹿食免・鹿食箸)を使っていたことも含め、とても興味深い事象だと思いました。鹿肉は現在でも長野ジビエを支える立派な食材となっています。余談ですが、長野の人曰く「鹿肉の旬は夏」だそうです。ジビエ=冬ということではないそうな。

史料館前からミシャクジ社を望む

とても良い天気でした

ミシャクジ社は、ミシャクジ(御左口神・御社宮司)を祀っている神社です。館長さん曰く、びっくりするくらい有名な方々が今でもこっそりお詣りに来るとか来ないとか。

御左口神社(御頭御社宮司総社)

ミシャクジ社のそのまた先には、神長官裏古墳がありました。

神長官守矢家裏古墳(推定7世紀中葉)
石碑がかしいでいて若干危険な気も
古墳内部
手前が後方で奥が前方

守矢家のご先祖様の古墳かどうかは分かりませんが、諏訪氏の墓でもなく、かつ、宮内庁の管轄では無い=天皇関連ではない、ので、確率は高そうに思います。

ちなみに史料館のすぐ裏には大祝諏方家墓所がありました。

大祝諏方家墓所
裏から見た図

元々この場所は守矢家の墓所だったそうです。にも関わらず、江戸時代に諏訪家に墓所の場所として所望され、元の守矢家の墓所は熊野堂(旧高部村共同墓地)に移動させられたとか。

理由は分かりませんが、そういうことまでしっかり残っている辺り、古文書のパワー恐るべし。

史料館の人曰く、こちらに来る人は、大きく2つのタイプに分かれるそうです。一つは歴史的興味で来るパターン、もう一つは建築的興味で来るパターンですが、我が家はハイブリッド(歴史も建築も興味あり)なのでした。

ということで、次回は藤森照信氏の建物について語る予定です。

6件のコメント 追加

  1. CoccoCan より:

    25頭でもやはりちょっと気後れしますが、75頭とは、、、
    一度見たら、しばらく夢に出て来そうです笑

    いいね: 1人

    1. KYO より:

      CoccoCanさん、コメントありがとうございます😊
      生々しいというか、古代から続く原始的なパワーのような物をひしひしと感じました。
      入り口入った途端に目に入ったうさぎの串刺しから、ひえぇ💦 だったので、もしも鹿の頭がこの3倍あったなら、かのり涙目になっていたかもしれません😅
      贄の文化を間近で見るというのは、剥製であっても、なかなか厳しいものがありますね〜。

      いいね: 1人

  2. wakasahs15th より:

    古代から明治までの凄い記録が残されている様ですね。神長官守矢のことは知りませんでした(^^)/
    鹿の首75頭は凄い光景だったでしょうね(@_@)古代の風景が蘇って来そうです(*^_^*)

    いいね: 1人

    1. KYO より:

      wakasahs15thさん、コメントありがとうございます😊
      御頭祭の復元を見ていると、古代から続く神事の原始的なパワーを感じました。
      八百万の神様がいると言われる古代日本の、その片鱗が少しだけ伺えたような、そんな気がしました(^-^)

      いいね: 1人

  3. 洋子 より:

    78代目!!気が遠くなりますね・・・
    鹿の首75もさぞすごい光景であった
    ことでしょうね・・・
    墓所はまるでストーンヘンジのごとし、で。

    いいね: 1人

    1. KYO より:

      洋子さん、コメントありがとうございます😊
      入っていきなりが、うさぎさんの串刺しだったので、かなり引きました😅
      有名な諏訪大社の御柱の件もあり、見ていて、柱と贄の関係が気になりました。
      墓所が諏訪家だったことについては気になりましたが、肝心の守矢家の墓所が近くにあったことについては、帰宅後にパンフレットを熟読してから気付いたので、見損ねました。残念。。。

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